甲州光沢山青松院

 更に色即是空 

平成15年12月号


  「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな」 ―吉田兼好は徒然草第八段で色香の魔力、情愛の惑いを説いている。久米の仙人が 女の白いふくらはぎを見て神通力を失ったことにいたく同情しているようにも読める。 然し心経の色即是空はこのような意味ではないということはすでに学んだ。 (前号参照)

  ところで、色(シキ)を色(イロ)と読むなら話は別である。 これはこれで平安朝の立派な美的概念として確固たるテリトリーを有し、 国文学の研究対象になる。「色好み」などというと下世話的には 「助兵衛なオッサン」となるが、繊細・優美を基調とする平安朝の美学に 照射されれば、男女の間に生ずる人間(敢えてジンカンと読みたい)の情趣、 風情をこよなく愛する「生きる」ということの「ツウ」といったニュアンスを 帯びてグッと格調高くなる。無常というより無常美観である。そこで出家が女に よろめく自分の心を問題にするなら、色即是空よりむしろ後に続く 「受想行識亦復如是舎利子」のくだりのほうが聊かちかいと云わねばならない。 色即是空の色が「もの」としての人間の肉体なら、受想行識は人間の「こころ」の さまざまなはたらきを指示しているからだ。 したがって件の出家が妖艶なる女を見て惑うとき、「受想行識即是空、 受想行識即是空・・・」と吐けば自分の心に対する戒めとしてかなった 言葉であったろう。

  日本浪漫派の論客であった故亀井勝一郎氏は「愛の無常について」 というすぐれた評論を著したが、間違いなく愛や恋も無常するのである。 無常しなければ離婚は減るかもしれないが、源氏物語もできなかったし、 ファウストとグレートヘンの悲劇も成立しなかったろう。紫式部やゲーテも 題材に困ったはずである。「舎利子よ、人間は肉体のみならず精神のはたらきも また空なるものぞよ」と思索者釈尊が智慧第一といわれた弟子に云うとき、 釈尊には無常美観は微塵も感じられない。端的に無常である。端的に空である。 空の一側面が、すべて森羅万象は因縁所生であり、それ独自で実体あるものは 一つとてないことはすでに見てきた。 諸法無我乃至一切無我ということばが その消息を示している。室町時代の禅僧に一休宗純という人がいる。元旦に 骸骨を振りかざして街中を練り歩き、「いずれの時か夢のうちにあらざる、 いずれの人か骸骨にあらざるべし」と無常を端的に骸骨で示したことはよく知られて いるが、これも空を直示しているとはいえ、諧謔のこもったニヒルであるといえよう。 もし件の出家が妖艶なる美女を見ると同時に一休宗純の骸骨を心に描き 「色即是空、色即是空・・・」と吐いたのなら、これはこれで空観に基づいた 立派な認識である。

  要するに色即是空からは少なくとも諸法無我(一切無我)と 諸行無常の側面が見て取れる。前者は空の空間的側面、後者は時間的側面と 解しても間違いではあるまい。しかし果たして心経の色即是空はそれだけなのか・・・。

  奈良薬師寺第127代管主高田好胤師が「かたよらないこころ、 こだわらないこころ、とらわれないこころ、ひろく、ひろく、もっとひろく・・・ これが般若心経、空のこころなり」と説かれたのは、蓋し、非常にわかりやすい 言葉である。誰が聞いても分かりやすい。さすがである。ひろく、ひろく、 もっとひろく・・・ここがすばらしいと思う。私たちの生命はいつも具体的には その時その時の局処的生命であらざるを得ないのであるが、また同時に限りなく 虚空へと開かれている遍在的生命でもあり得る。そうでなければ一瞬のシャッタ ーチャンスを捉えて僅か十七文字の中に別乾坤を打ち立てることもできなければ、 V.フランクルが「夜と霧」の中で描いたあの夕焼けのすばらしさも世界中の読者 の心には深く刻み込まれなかったであろう。西田幾多郎、西谷啓治の学燈を継ぐ 京都学派上田閑照は「二重世界内存在」という言葉で人間を捉えた。さらに考究 をすすめてみたい・・・。







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