■ 袖ひぢて
平成16年3月号
立春を過ぎ二月半ばから下旬にかけて、激しい風と共に生暖かい
空気が人肌をかすめる。春の予感というより、地球の温暖化のほうが最近では
心配だ。ヴィバルディの「四季」やベートーベンのバイオリンソナタがラジオ
から流れるには早すぎる。この冬とも春ともいえないこの季節には紀貫之の
次の歌が似つかわしい。
貫之は周知のように明治時代の短歌革新運動の先頭に立った 正岡子規によって下手くその歌詠みと痛罵された人である。万葉のますらを、 写実に還れと提唱した子規によれば、これほど技巧にはしった歌は論外と いうことだろう。いかにも古今集らしい観念上の創作、意趣がわざとらしい。 夏には袖をぬらして手にすくった水が、秋を経て冬には凍り、その凍った水を 今日吹く立春の風は溶かそうとしている。 わずか三十一文字の中に、夏→秋→冬→春と季節の推移を詠んだこの歌は ある意味では技巧の傑作である。水に纏わるいろんな思い出を今日吹く 春風は消し去ろうしているのかもしれない。その意味では単なる技巧ではない。 人間には消したくても消せない過去の記憶が時として記憶の底から浮かび上がる ときがある。それを今日吹く爽風は忘れさせてくれるのだ。 それよりも感心するのは、大岡信氏が指摘しているように、西欧語なら当然 関係代名詞や分詞構文等でくどくどとまわりくどく説明しなければならないものを、 この短歌という定型では、瞬時のうちに時間を凝縮させて目の前に 表現して見せることである。水には水の経歴がある。目の前の水が過去の水の 在り様を幻視させる。そして一陣の風がこおった水を今日は溶かす・・・ 決して単なる技巧ではなく、いろいろに読める二重性が見て取れる。 想像のふくらむ歌である。
水と風といえば西欧ではゲーテの詩が有名だ。人間の心を水にたとえ、
人間の運命を風にたとえた「水の上の霊の歌」である。
膨大なゲーテの作品群のうちで、この詩が一度読んだだけでも 忘れられないのはなぜだろう。循環、輪廻というものが東洋人に近しい 思想だからだろうか。しかし豊かな経歴を持つ水も、無慈悲にも怒濤のように 吹く風の前にはあえなく飛散する。パスカルは「人間は風にそよぐ葦のように はかない存在である。しかし<考える>葦である」といった。人間は強くもあり、 また弱くもある。立派なことを言っていても、大災害がきたり、病気になったり、 少しのことで一喜一憂したり・・・まことにはかない存在である。 大きな風が吹いてしまうとひとたまりもない。所詮モータルな存在なのである。
季節の推移と死の突然の訪れの対照を一級の文章で書いたのは吉田兼好である。
死は季節のように順序だててやってこないのだ。 前からではなく突然背後から襲いかかってくる。 人生という浅浜で遊んでいると思っていたのに、気がつくと足元まで 潮が満ちてきている。後戻りしようにも後戻りできない・・・。 わが国第一級のエッセイストのこの文のほうが、モンテーニュに 「人は皆死刑囚である」などと言われるより遥かに人を慄かせる。 七十代八十代の人を残しておいて、五十代六十代の人が急いで逝かれるのを見ると、 いっそう兼好のこの言葉が沁みる。 「冗談ではない、子どもだってまだ仕上がっていない。なんでそんなに早く 俺のところへくるのだ。順番というものがあるだろう。」思わず「死」に 向かって叫びたくなるというものだ。
一方、道元は「現成公案」で逆に季節の非連続面を見せる。
生と死はここでは等位である。
と季節の断面を「而今」で切って見せる。「生也全機現、死亦全機現」である。 また、川の流れを走る舟人のたとえがこれまた凄い。岸辺を見ていると外の景色が どんどんと移り変わっていく。然し、足元を見ると自分の乗っている舟も、 ものすごい勢いで川を流れて目的地に向かっているのだ、と。 これも兼好に劣らず人を戦慄させる譬えである。人間は人のことはよく目に つくが、なかなか自分が見えない。火は火を焼かず。水は水を洗わず。 川端康成はノーベル賞の記念講演で「美しい日本の私」と題し、 「春は花夏ほととぎす・・・」というかの道元の歌をひいた。 しかし道元の眼差しは川端の意と違って四季折々の「美しい」雪月花ではない。 それらを紡ぎ出す「而今」であり「全機」である。ゲーテの言う「ヴェルデン」で ある。生生滅滅の諸法実相である。そして生滅、増減を超脱する現成公案である。 「いたずらに百歳生けらんはうらむべき日月なり」道元は五十四年で生涯を閉じた。 梅原猛氏は「正法眼蔵七十五巻本」に一種の狂気を見るといっておられるが、 この宗教的天才の言葉は、眩いばかりの水波の光のようにわれわれの心に きらきらと輝く。どこを拝読しても、時を無駄にするな、この「今」を生きよ、 と厳かに語りかけてくるのである。 |