甲州光沢山青松院

 那箇か是れ真底 

平成16年4月号


  伊勢物語第九段は、身を用無きものに思いなした男が 「京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めに」といって 旅をする話である。「あづまくだり」としてよく知られている。 道中、三河の国では 「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ」] と都に残してきた妻を思い落涙する。また駿河の国では 「駿河なる 宇津の山べの うつつにも 夢にも人にも あはぬなりけり」 と詠み、夢の中にさえも妻と会えないのを男はかこつ。 まことに優雅で調べの美しい作品である。 その旅情はあわれを誘う。 道中いつどこでも携帯電話で連絡をとりあえる現代の若者には 理解しがたい風情である。耐え難い別離でも、魂が身体から 遊離したはなしが中国宋代にはあった。 むしろこういうオカルトっぽい話のほうが現代の若者には 受けるかもしれない。

  契りをかわした女と泣く泣く別れて川を下っていると、 後ろからどんどん追いかけてくる女に気づいた男がいた。 二人は喜びあい別の町で睦まじく暮らし子供までもうけた。 しかし実は女の魂だけが追いかけてきていたらとしたらどうだろう。 女の身体はもとの親のところにあったのである。 このなんとも奇妙な話は実際に中国で流布した話である。

  昔、揚子江のほとりに張鑑という金持ちが住んでいた。 張鑑は倩女という名の絶世の美人を娘にもっていた。彼にはまた 王宙という名の非常にハンサムな甥がいて、倩女と王宙は幼い頃から 許婚のようにして大きくなり、二人もまた当然結婚するものと 思っていたのだった。ところが倩女が適齢期になってくると 張鑑は父親として欲が出てきた。どうせならエリートの官僚と 結婚させようと思ったのだ。娘も自分もそのほうが将来にわたって 幸せになれると。それを知った王宙は恨んでは見たものの、 当地にいても詮無いことと思い揚子江を下り旅に出る。 そこで前段の顛末となるが話はまだ続く。

  二人はある田舎町で幸せに暮らしていたが、 ある日娘は父に詫びたくなった。好きな男を追って逃げてきたとは 言うものの、やはり親子の絆は簡単に切れるものではない。 そこである日家族で故郷を訪ねる。王宙は「私は何年か前にあなたの 娘さんを連れ出した王宙です。どうか許してください。」 と詫びる。ところが張鑑は言うのである。 「そんなはずはない。うちの娘はあなたが姿を消して以来、 魂が抜けたように病気で臥せって寝ている。口も利かない。」 そんな馬鹿な、と王宙は親を連れ出して、 表で待っていた倩女に会わせると、親も驚いて今度は娘を中へ招き入れる。 その時である。今まで臥せって寝ていた娘が起き上がり 外から入ってきた娘と抱き合うと一人に「合体」したのである。

  この話をもとにして禅者は修行僧に問うのである。 「倩女せんじょ離魂りこん那箇なこ真底しんてい
  (どちらが本物か)

  男と一緒に暮らしていた娘が本物か。 それとも家で臥せっていた娘のほうが本物かと。 禅の公案集「無門関」にある話である。 うかつな返事をするとどやされて放り出されてしまいそうである。 さあ、この問いにあなたがたはどのようにお答えになられるか。 現実には起こりえないといって打ち捨てるのは簡単だ。 毎日毎日雑事に追われ、家族を抱え、あくせく働いているわれわれには 本当に関係がないのであろうか。張鑑にしても、二人を添わせてやりたいと 思いながらも自分の欲に勝てなかったのかも知れぬ。 わたしたちには理性と欲望があり、社会的な顔と内なる顔があり、 身体とこころがある。善をしたいと欲する自分とできない自分がある。 人それぞれいろんな二律背反をかかえている。 が、「迷い」ながらも求めていかざるを得ないもうひとりの 自分が間違いなくここにいる。

  四月八日はお釈迦さまのお誕生日。「天上天下唯我独尊」と わたしたちになり代わって、高らかに人権宣言されたお釈迦まは 七歩進まれたという。六道からの解脱ともいわれるその七歩目は 「発心」でもある。正法眼蔵「行持」の冒頭、総説に「仏祖の大道、 かならず無上の行持あり。道環して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、 しばらくの間隙あらず、行持道環なり」とある。 道環―わたしたちが発心して歩む道は、始めもなく終わりもない円環の ように連続していて切れ目がないのである。紀野一義先生は「永遠なる ものを求めて、永遠に努力するものを菩薩という」という至言をのこさ れた。四月八日の釈尊降誕会(花まつり)は一年一年あらたに「再」発心 する日でもあるのだ。

仏には さくらの花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば (山家集78)







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