■ 花と蝶
平成16年5月号
「花は半ば開くを看、酒は微かに酔うを飲む。 此の中に大いに佳趣有り」と『菜根譚』にある。今年も全国各地で 花見の宴がおこなわれたことであろう。腹八分目というが本当は六分目か 七分目が身体にもいいそうである。うららかな日差しを浴びて、 満開の下、泥酔して声高に騒ぐのはかえって興趣をそこなう。 人間の会話も長時間の沈黙は耐えがたいが、のべつ幕なしの饒舌も 聞いていて飽きるし、自己主張の連続も気が重くなる。しかし適度な お酒は雰囲気を和ませ、会社帰りのサラリーマンの潤滑油になっている。 ノミニケーションというそうである。現世の憂さを忘れさせるユーモアは 話には不可欠だ。酒を飲めば憂き世は浮き世と一変する。エスプリが効いていれば 尚云うことはない。 日本人の心の故里、良寛さんは軽やかな和歌を作っておられる。
愉快な話がある。三輪さんという人が客人としてあるお宅に招かれた。 ある部屋で待たされていると、床の間の掛け軸に「三輪空」とかかっている。 サンリンクウと読める。サンリンなどというと幼稚園や保育園の三輪車か、 少し古い世代ならマツダのオート三輪くらいしか思い浮かばない。 それがクウだというのである。三輪さんはいぶかしく思った。 なにか意図があって俺を呼んだのではなかろうか。「三輪空」は 「三輪の脳ミソは空っぽでアホである」と読めないこともない。 思案したが、訊くは当座の恥、訊かぬは一生の恥、思い切って尋ねてみた。 「三輪空寂」のことであった。「三輪空寂」というれっきとした一行ものの軸で あったのである。 布施する人、布施される人、当の布施(もの、こと)、この 三つがきれいな関係でないといけないのである。これを三輪空寂といい 三輪清浄ともいう。人間は大体において欲ボケであるから、本来はさせて いただく布施も施してやったと思い、布施される人もそれならもっと たくさん布施をしてくれと思い、その中で当の布施は両者の私心に汚されてしまう。 そこを戒めたのである。物のやりとりだけではない。 ときに非常に世話好きな人がいる。俺はあの時ああいうふうにこうしてやった、 ああしてやったと、いつまでも昔の手柄話を繰り返し演説する人がいる。 なのにあいつは恩知らずであると不義理を責める。 だいたい本人のいないところでこういう愚痴っぱなしはでる。 (ニーチェは凡人が二人寄ると第三者がいちばん迷惑すると言っている)いや、 これが所謂「世間」というものであろう。むしろこれが「世間」では 普通なのである。それ相応の見返りを求めるのが「世間」なのである。 だから良寛さんのように世間から脱俗した人の詩はいつもすがすがしい。 曹洞宗の僧侶でありながらも住職はしなかったので、寺を背負っていると いう気負いを感じさせない。だからか、和歌でも漢詩でも読んでいて さわやかな心地よさがある。バロックを聞いているようでもあり、 サラブライトマンやアーメリンクの透き通った声のようでもある。 その声は天上から舞い降りてきて、私たちを静謐の境へといざなう。 清澄な波動がこちらに伝わってくるのである。灑灑落落としている。 「花と蝶」などというと森進一さんの渋い演歌を思い出す人がいるかも知れぬが、 良寛さんに美しい漢詩がある。
これぞ布施の世界ではないだろうか。 花と蝶だけではない。生きとし生けるもの、互いに布施し合っているのである。 生かし生かされているのである。 そこには「してやった」とか「してもらった」とかいう 恩着せがましい意識はさらさらない。 そよ風、小川のせせらぎ、潮騒の音…こういう心地よい 響きを1/Fのゆらぎというそうであるが、この詩では良寛さんが自然の中に消えて、 自然のゆらぎそのものが謳っているような響きである。 布施は帝の則であり、自然の道でもある。 現代の詩人吉野弘さんの「生命は」という詩もまたすばらしい。
もうなにも説明はいらない。こういう詩を読んでいると、 御釈迦さんが語っているような気がするのである。 |