甲州光沢山青松院

 いのち養う 

平成16年10月号


人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、 また養われたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、 父母の残せる身なれば、つつしんでよく養いて、そこなひやぶらず、 天年を長くたもつべし。これ天地父母につかへ奉る孝の本也・・・

  江戸時代の儒学者貝原益軒はこのように「養生訓」を始める。 霊性喚起の秋は、心身一如をあらためて感じる秋でもある。普段家の中で、 職場の中で座ってすごす人は、この身を解き放ち、心は静かに身は忙しくせよと 益軒はすすめる。天地から、父母からもらったこの身心を養生せよという。

  幼稚園や保育園の運動会には、必ず親子で競技する種目がある。 日ごろむだぐちをあまり利かないお父さんが思わぬ笑顔を見せてくれたり、 口やかましいお母さんがいとしそうに子どもをしっかり抱きしめている姿は 見ている人々にもほほえましい。何かしら安心感を与えるのである。 会場全体に広がる安心感は、それぞれが人として生まれてきたことの喜びでもある。 その昔、姉たちは子守唄を歌いながら小さい身体にねんねこやおんぶ紐を背負い、 幼い弟や妹の子守をさせられた。「今の子どもはいいねえ、まったく・・・」などと 今のお年寄りがよく言うがほんとにいいのかどうか・・・。弟や妹の面倒を見ると いうことで小さい頃から肌で「子育て」を学習してきたのだ。 6人7人の兄弟姉妹など珍しくなかったという。母の代わりとなり、 小さい頃から「親学」の真似事をさせられてきた。安心の「安」はウかんむりに 「女」である。家庭に女性がいるところからこの字ができたのだろうか。 こんなことを言うと性差別であると糾弾されるかもしれないが、やはり学校から 帰ってきて家に誰かいる家庭が理想的である。子どもはその方が良いに決まっている。 「ただいま」「おかえり」という短いやりとりの中に「安」んずる心が育まれる。

  わたしたちは親子の縁をどう考えたら良いのだろう。 うらやましいほど仲睦まじい親子もあれば、あんな親子にはなりたくないと 思う親子もいる。腹を痛めて産んだ実の子でありながら保険金の対象にする親もいる。 逆に親をあやめる子もいる。毎日の新聞を見るとうんざりだ。 曹洞宗の名僧沢木興道老師のように、幼い頃両親に死なれ、もらわれていった養父が 博打うちで酒好きの女たらしの借金漬けでも、人々から尊敬される立派な 僧侶となられた。その人の前世からの機根というものに思いをはせずにいられない。 「あなたがおられたからワシ(沢木師)は堕落せずに済んだのじゃ・・・」金を せびられても唯々として渡していた師に、養父は深く頭をたれるだけだったという。 反面教師という親子の形もあるのだろう。それにしても親子の縁を頂き、 この世に生れてくるということはいったいどういうことなのか。

  曹洞修証義第五章にある「願生此娑婆国土し来たれリ」という言葉は すごいと思う。われわれは願ってこの世に生まれてきたというのである。 勝手に生れ落ちたのではないのである。前世からの因縁を結び、その結果 この娑婆世界に生まれてきたという。娑婆とは忍土。嬉しいこともあるけれど つらいこともある。うまくいくこともあるけれどうまくいかないこともある。 笑いと涙。喜びと悲しみのひとつひとつが人生の「道具立て」であり、 「荘厳道具」である(余語翠巌老師のことば)。前世からの因縁で今があるというのは、 科学的な生殖の仕組みを学校の理科で習ってきた現代の人々には容易に 受け入れられないだろう。しかし仏教的実存は違う。前世−現世−来世の三世の 連関でこの現世を捉える。そこでは業識の生から誓願の生への転換が可能となる。 業生(ごっしょう)から願生(がんしょう)への質的転換。誓願を立てることにより、 無明は無明でありながら、貪瞋痴は貪瞋痴でありながら、苦は苦ながらに脱落底となる。 「ありつぶれ」である。わたしたちはボサツとして生きるのである。 この実存の地平に立つ人はまことに幸いなるかな。 ここには現代人が陥りやすいニヒリズムのかけらは微塵もない。

   山梨県増穂町が生んだ永世棋聖米長邦雄氏はその著書「人間における勝負の研究」の中で、 タイトルのかかった大一番のひとつ前の対局こそが重要であると語る。 一つ前を大事にせよというのだ。するといい結果が出るという。 わたしたちの人生はもちろんゲームや勝負ごとではない。 また人生は功利的にとらえるものでもない。しかし来世を想定した場合、 この現世を大事にせざるを得ないのである。刹那主義やケセラセラ主義とは おさらばしよう。旅の恥はかき捨てとばかり、旅館やホテルのトイレでも 粗相をしないようにしよう。

   詩人坂村真民氏は「二度とない人生だから」の中で、「一輪の花にも無限の 愛をそそいでゆこう 一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけてゆこう 一匹の こおろぎでもふみころさないようにこころしてゆこう」とうたう。 この一期一会はけして「一期」ではない。その一期は三世を貫く一期であり、 花や鳥や虫との一会は三世の隅々まで照らしわたる一会である。 人生は旅であると言われるが、前世を出立し来世へ向かう旅とするなら言葉の 意味はよりはっきりする。秋は深まり果実は熟す。自己の正体も愈々露わになる。 いのち養う好季節到来である。







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