■ 赤子のこころ
平成16年11月号
日本の古今和歌集仮名序には「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、
生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」とある。春の日の気候が生き物の
生命活動を盛んにさせるのはわたしたちの体験的な事実である。しかし人間の霊性の
活動となると秋の日にはかなわない。雲は白くまた風は清く、金木犀は芳香を放つ。
水も空も同じ色となり、月が澄んだ水中に明るく映り、人の心身はすがすがしくなる。
霊性喚起の秋といわれる所以である。ひとり神社仏閣を詣でる旅もいいだろう。
月をめでるのもいい。就中、秋の夜長、灯火の下での読書にまさるものはない。
灯火親しむべし。書冊秋に読むべく、詩句秋に捜すべし。兼好は次のように書く。
古典を読む楽しみは遠い昔人との対話といっても過言ではない。
窓外の虫の声を聞きながら古典を紐解くと、まるで昔人が今ここにいて語りかけて
くるようではないか。遠い昔人が「汝」として現前してくるのである。
かつてマルティンブーバーという哲学者は、世界は人間の二重の態度に応じて
世界もまた二重であるといった。わたしたちは二つの根源語を語ると。
ひとつは「我と汝」、もうひとつは「我とそれ」である。基督教の新約ヨハネ伝は、
「はじめに言葉ありき」ではじまる。その言葉は出来事であり生命であり光だ。
それを証すためにヨハネが遣わされたという。ブーバーは「はじめに関係ありき」
という。わたしたちはすべて、「我と汝」という根源語を語るのである。
しかし汝の世界は必然的に「それ化」する運命にある。時間の経過とともに
「それ」の世界へと退いてしまうのだ。個人の歴史であれ、人類の歴史であれ、
進歩・発展は「それ」の世界の拡大に他ならない。「それ」の世界はまた、
利用と経験の世界でもある。人類の叡智の精華であると思われた科学技術が人殺しの
武器に転じたり、人類が鋭意築き上げてきた文明とは、実は自然破壊の別名で
あったりしたのを見れば、彼の主張はよくわかる。そして一方、拡大し複雑化する
「それ」の世界に飲み込まれる現代人の関係能力の希薄化も憂いる。
「汝」を語る力の弱化である。彼は「対話」の哲学者としても知られ、政治や教育学、
心理学にも多大なる影響を及ぼした。ブーバーの「我と汝」の思想は、
文明間の対立や混迷を深める現代にあって、今再び見直されようとしている。
そういえば日本にもこんな和歌があった。
わたしたちはもともと一人残らず赤ん坊であった。
これは間違いない。そのおさなごがだんだんと知恵づいてくるのである。
知恵といっても無相、無心の般若の知恵ではない。「私が、自分が・・・」という
賢しらげな知恵である。前述のブーバーでいえば「それ」の世界の拡大である。
知恵づいてくると仏さんに遠くなっていくというのである。これはどういうことか。
「一」が「二」を知り、「多」を知ってくると分別ができてくるのである。
母からもらったアンパンを最初はおいしいと喜んで食べていた子どもが
(もっとも最近の子どもはアンパンごときでは喜ばないが)、お兄ちゃんの方が
大きなアンパンをもらっていると分かると素直に喜んで食えなくなるのである。
アンパンとの、仏さんとの「ひとつごと」の世界が崩れるのである。仏さんとの
「ひとつごと」とは即心是仏の世界である。その即心是仏の「心」がかき乱されるの
である。「ひとつごと」は仏教ではまた「一如」という。不一不二の世界である。
分別心ができること、それ自身はけして悪いことではない。いいことのほうが多い
かもしれない。ところが、分別心ができていくにつれて、それよりもっと大事
なものが失われていく。これが問題なのだ。それは、考えられない事件が多発する
今日の児童、少年の問題でもある。「ほとけに遠くなる」ということだ。
鈴木大拙先生はその大事なものを失わないように「無分別の分別」と仰った。
臨済宗の山田無文老師が、かつて高名な基督者に「悟りとは何か」と尋ねられて
「貴国の聖書には、神の国に入るのは赤子のような心だとある。そのような心だ」
と言われたのはまさにこのことを指していると思われる。しかしその「悟り」も
また無常する。そうでなければお釈迦様が三法印の第一にすえられた「諸行無常」と
いう真理は嘘だったということになるだろう。もしも「悟り」というものが
存するなら、それは固定した何ものかでなく、不断の「修」によってのみかろうじて
保たれるものに違いない。(だからこそ道元禅師は修証一等を説かれた。)
マルティンブーバーはまた「永遠の汝」について、「我」が「汝」と出会うとき、
そのつど具体的な情況の中で「永遠の汝」は姿を現すと述べている。
わたしたちは「汝」を通して「永遠の汝」をかい間見るのである。
道元禅師は「さとり」について次のように書かれている。
月ぬれず、水やぶれず・・・、実に美しい表現ではないか。赤子のこころ同様、おさとりは決して「私のもの」ではないのである。
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