甲州光沢山青松院

 愛語 

平成16年12月号


  松本清張さんの「黒皮の手帖」が人気を呼んでいる。 この方の推理小説は単なるプロットの妙だけの推理小説ではない。 所謂「社会派」推理小説として日本国民の圧倒的な支持を得てきた。 政治や歴史に対する丹念な考証をもとに書かれた作品は、既成の ジャンルを大きく超える。もうひとつは、高等小学校あがりで 給仕や印刷工など下積みの苦労を長らくされてきた故に、 社会の虐げられた人、弱い立場にある人への暖かい眼差しがどの小説にも 感じられる。亡くなられて久しいが、いまだに多数の読者を獲得し、 脚本化される所以でもある。氏は学歴がないゆえの下積み生活を 振り返り次のように書いておられる。

私は世間の主婦の方にお願いしたい。どんなに下級の人でも、 たとえば、あなた方の台所を訪問して品物を配達でもしたような場合、 それが商売上の当然の行為であっても、その人間に やさしい犒い(ねぎらい)の言葉一つでもかけてやっていただきたいのである。 その人間はその一言でどんなに元気づけられ、希望を与えられるか分からない。 それはあなた方の想像以上かもしれないのである。相手方が人間的に 認めてくれたことであり、差別的な観念を持たれなかったことへの喜びである。
(松本清張『実感的人生論』)

  セールスの電話がよくかかる。電話の向こうでは 何かしきりに早口で流暢にまくしたてている。断りを入れるタイミングを 計るがなかなか息を休めない。「対話」なんてものではない。 一方的な宣伝である。しまいに腹が立ってくる。それより、わざわざ足を 運んでくれて商品の説明をしてくれる人のほうが、思わず「ご苦労さん」と 声をかけたくなる。

  実際、言葉一つで人は生き死にするのである。 人を奮い立たせるのも言葉であり、奈落の底へ突き落とすのも言葉である。 言語する行為は易しいようで難しい。道元禅師は『正法眼蔵』菩提薩○四摂法の中で 「愛語」ということをいわれる。曹洞修証義にも採択されているこの言葉は、 単なるおべっかやへつらいではない。自らが仏や菩薩となって相手にかける 言葉である。だれでも生涯に一度二度は、かけられたその言葉で 今までの苦労が吹き飛んでしまったような体験があると思う。 わたしたちは生涯にいったい何度そのような言葉をかけ、 またかけられるだろうか。心の琴線に触れる言葉はなかなか吐けるものではない。

※○は土ヘンに垂


愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語 廻天の力あることを 学すべきなり。
(『正法眼蔵』菩提薩○四摂法)

  慈心とは慈悲の心である。慈悲とは仏菩薩の抜苦与楽の 働きである。人間の弱さ、はかなさへの共感がそこにはある。 よく仏壇の灯明は智慧の象徴、花は慈悲の象徴であるといわれる。 そう言えば、病院へお見舞いに行くときも花を持っていくし、 おめでたいお祝い事にも花を持っていく。喜びも悲しみも共にするという 共感の行為だ。愛語はそういう慈悲の泉から滾々と溢れ出てほとばしる言葉だ。 そういう言葉は廻天の力、天地宇宙をひっくり返すほどの力があるというのだ。

  愛語はまた「言葉ならざる言葉」の形をとることもある。 道元禅師をこよなく敬慕した良寛は、弟の嫁から息子に意見をしてくれと 頼まれた。息子が放蕩に身を持ち崩しているという。呼ばれて三晩泊まったが、 良寛は一向に甥っ子に説教をしない。(良寛という人は説教、 先生らしく振舞うことが大嫌いであった。)ついに帰る日になった。 良寛は玄関で甥っ子に草鞋の紐を結んでくれという。甥は叔父が妙なことを 言うと思ったが、結んでいると上から襟元にポトリと冷たいものが 落ちてくるではないか。見上げると、良寛が目いっぱいに涙を 溜めていたのである。そして良寛は黙って去っていった。・・・こういう情景を 想像すると、私たちの周りにはなんと口先だけの「愛語」が満ちていることか と思う。これこそ、愛語は廻天の力であると思うのである。







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