甲州光沢山青松院

 年年歳歳 

平成17年2月号


年年歳歳花相似 (年年歳歳 花 相似たり)
歳歳年年人不同 (歳歳年年 人 同じからず)

(劉廷芝 「白頭を悲しむ翁に代る」の詩より)

  師走とは一年の終わりに僧侶が請われて その一年の罪悪、罪、咎などを消し去る為に忙しく走り回ったので 師走という説がある。もしそうならば、歳末から新年にかけての 一連の行事は、わたしたち日本人にとって「新しい出発」を期する上で きわめて意義のある時間といえる。日頃は雑事にかまけ、不平不満 たらたらで、己のいたらなさ、馬鹿さ加減に無自覚、勝手気まま この上ないわたしたちも、大晦日から元旦にかけてだけは不思議と 神妙になる。冒頭の詩は、春夏秋冬を毎年繰り返していく自然の 恒常性に対し、人間存在の無常性を対比的にあらわしている。 花は何の花か問わないことにしよう。梅と見るなら、凍えるような 寒さに耐え、やっと蕾をむすんだ「辛苦」を思うこともできるし、 サクラと見れば、人の心を狂わせんばかりの艶やかさも想起できよう。 桃なら差し詰め、あの霊雲志勤禅師が開悟したという桃源郷か。

  しかし問題はわたしたちのことである。 人(ニン)のことである。「人、同じからず」ということは 去年いた人が今年はいないという冷厳な事実でもあるし、 去年の自分と今年の自分とではけして同じ自分ではないという 事実ともとれる。親族親戚や知人にご不幸があれば、尚更この詩句は 端的に直指する。新陳代謝の激しい業界や会社に身を置いている人で あってみれば、生き抜いていくということはたいへんなことである ことをあらためて感じる人もおられるだろう。一見華やかな プロ野球の選手も、毎年多くの人が解雇され別の職に就く。 球団に請われて残ることができたりマスコミに就職できるのは ほんの一握りである。大半は新しい職で一からの出発である。 幼稚園保育園、学校関係者は、毎年桜の咲く時期になると、 手塩にかけてきた子供を送り出し再び新しい子供を迎え入れる。 一年一年同じ事の繰り返しである。年(年度)が始まりまた 元にかえる。・・・「かえる」とはいったいどういうことなのか。

  「帰る」には本来あるべき姿、本来あるべき状態に 戻るという意味があるらしい。ご葬儀の白木のお位牌の一番上には、 ご戒名の上に「新帰元」と書かれる。無限の時空である浄土へと この度戻っていかれたということである。碧巌録、無門関、従容録などの 公案集は禅のテキストとしてよく知られている。同じ禅のテキストでも 『十牛図』というテキストがある。牧童が逃げていった牛を捜し求め、 見つけていく十枚の絵からなるテキストである。その第六は「騎牛帰家」 と名前がついている。牛にのって家に帰るという意味である。 逃げていった牛をついに見つけ、牛にまたがり家に帰っていく絵が 描かれている。牛とは本具の仏性であり本来の自分である。努力し、 修行し、見失った自分、本来あるべき仏性とひとつになった自分を 図はあらわしている。本来の自分に「帰った」のである。 (さらに第九は返本還源と名づけられ「返」「還」の二つの 「かえる」があてられている。)

  空手還郷(クウシュゲンキョウ)、空手にして郷に 還るという道元禅師の言葉も有名である。道元禅師は比叡山の僧侶に 失望して山から降り、また京都建仁寺をあとにして二十四歳のとき 宋の国へ旅立つ。遍歴後、天童山で生涯の師と仰ぐ如浄禅師に出会い、 師の下で「身心脱落」の大事を悟って宋から帰国したのが1227年、 二十八歳のときである。「かえる」はここでは「還る」となっている。 野球などではホームから一塁二塁三塁をまわって元のホームに生還 するのに「還る」が使われる。旅立つ前の道元と帰国してからの道元は 同じ道元でも違う道元である。宋の国へ行って「眼は横に、鼻は直に」 というあたり前の事実がわかったのである。帰国後、宇治の興聖寺で 衆を集めて次のように説法する。

山僧さんそう叢林そうりんること おおからず、 只是ただこれ 等閑なおざり天童てんどう 先師せんしまみえて、 当下ただち眼横がんのう 鼻直びちょくになることを 認得にんとくして、人に あざむかれず、 便乃すなわち 空手くうしゅにして きょうかえる。 所以ゆえ一毫いちごう仏法ぶっぽうなし。
(『道元禅師語録』、『宇治興聖禅師語録』)

(拙僧は諸方の寺院を多く訪ねたわけではないが、はからずも天童山で 師である如浄禅師にお目にかかり、その場で眼は横、鼻は縦であることが わかって騙されなくなった。そこで何も携えずに故郷に還って来た。 だから拙僧にはいささかも仏法はない。)

  眼は横に、鼻は直についているというのは 「あたりまえ」が「あたりまえ」としていただけるということだ。 私はたいして修行してきたわけではない。ただ師匠に出会って 眼横鼻直がわかり、みんなから騙されなくなった。 他の人は中国へ行くと仏像を持って帰ったり経典をを持って帰ったり、 色々なものを持って帰ったりしているが、私は何も持って帰って こなかった。だから私には仏法などないのだ― これは聞きように よってはたいへんな謙遜、厭味な謙遜に聞こえるかもしれない。 しかし、中国から「還ってきた」道元禅師はこの後さらに次のように 続けられる。

ちょう ちょう ひんがしより で、 夜夜やや月は西に沈む。雲収まって 山骨さんこつ露われ、雨過ぎて 四山しさん低し。三年に 一閏いちじゅん遭い、 とり五更ごこうく。

お日様は東から出て月は西に沈む。三年経てばまた閏年がやってきて、 鶏は朝の四時ごろ鳴くのである。仏法はお寺にあるのではない。 坊さんが持っているものでもない。お経に書いてあるものでもない。 あたり前のことをあたり前として受け取ることにあるのだ、 と道元禅師は仰りたいのである。「眼横鼻直」という言葉は実にこの 消息をあらわしている。臨済禅師もまた「無事是れ貴人」ということば を遺しておられる。禅の教えは教外別伝、不立文字と云われるように、 生活に即して「あたりまえ」を「あたりまえ」として有り難く頂くことに 眼目を置く。これを禅者は「仏知見」を開くという。わたしたちの 経る一年一年はこの仏知見を開いていく一年一年でなければならない。

  表題の詩句に戻ろう。年年歳歳咲く花は同じでも、バラはバラとして、 菫は菫として見る私たちが、単なる無常存在ではなく、歳歳年年仏知見を 開くべし、と仏向上の立場からは読めるのである。







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