甲州光沢山青松院

 誰がために花は咲く 

平成17年5月号


  今年はあらゆる花々が例年より少し早いような気がする。 「はなまつり」の二週間も前から水仙が早々と花開き、ぼちぼちと白や 紅の木瓜が咲き出し、はたして当日までもつのかしらと思っていたが、 遅く咲く種の椿でなんとか花には困らずにすんだ。温暖化現象はいろんな ところであらわれているのだろう。食材を扱っておられる方から聞いた話。 暖かくなってくると食品の衛生管理、ひいては食中毒が心配である。 今年は例年よりも二週間もはやく厨房に冷房をいれているとのことだ。 それにしても暖かくなりはじめると植物の開花は速い。木蓮、桜、シャクナゲ、 ツツジ、菖蒲、四季バラ・・・あれよあれよという間に百花繚乱である。 目の覚めるような色をした紫の菖蒲の傍らで、濃いピンクの椿の花弁が どっさりと固まり落ちている。ぐるりと根っこを取り囲んでいる様子は つややかだ。誰が言い出したのか知らぬが「花くず」という言葉を思い出す。 土色を背景にしたピンクの集積は豪華である。大地に還り、夏から秋、冬を 経てまた春が来れば見事な花を咲かす。それにしても、この命の循環をいったい 何が司っているのだろう。ゲーテは『ファウスト』の中でマルガレーテの 「神を信じるのか」という問いに対してファウストに言わしめている。


私のいうことを勘違いしないでおくれ、可愛いひと。
神、などと簡単に名前がつけられるものだろうか。
おれは神を信ずる、なんて、
はっきりといえるものだろうか。
さりとて心には感じていながら、
おれはそんなものを信じない、などと、
敢えていい切れるものでもないだろう。
一切を抱くもの、
一切を支えるもの、
それはお前をも、私をも、自分自身をも、
抱き、且つ支えているではないか。
大空は上の方に円天井をなしているではないか。
大地は足もとにしっかりと横たわっているではないか。
永遠なる星はやさしい眼差しをして、
のぼってくるではないか。
お前とこうして眼と眼を見合わせていると、
なにもかもがお前の頭へ、
お前の胸へ迫ってきて、
永遠の神秘としてお前のかたわらに、
眼に見えるが如く、見えざるが如くに働いているではないか。
(第一部「マルテの庭」 相良守峯訳)

  「眼に見えるが如く、見えざるが如く」に働くもの、 わたしたちの周りに充満しているその働きを「自然の摂理」といったり、 「み仏のはからい」といったりする。忘れていた若かりし頃の感動が よみがえる時、眼前の一輪の薔薇にも驚かざるを得ないのである。


薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。
(北原白秋「薔薇二曲」 『白金ノ独楽』より)
 

  あたりまえのことを「有り難い」こととして 受け止めることができるには、言うに言われぬ苦参苦究や 久参が背後にはある。道元禅師の帰国後の第一声、「眼横鼻直」も そうだし、古来から禅門でいわれる「柳緑花紅」もまたそうである。 当時、人気絶頂の国民詩人が薔薇の花に見た「万物を統べる大いなるもの」は 簡単に神とか仏とか言い得ないものであったに違いない。 スキャンダルや、郷里の実家の破産などという自身に降りかかった 修練がこのような詩を創らしめたといってよいだろう。 「不思議ナケレド」は実際は不思議なのである。不−思議は 人間の思いを超えたところ、絶対者の顕現である。 「光リコボルル」はそういう不思議なものにふれた喜びである。 宗教的には法悦とでもいうのだろうか。人間というものは元来迷うように できているのかもしれない。そして迷いの挙句、本へ帰るように できているのだと思いたい。「十牛図」で言えば、牛を求めて見つけ、 飼いならして牛と一つになり、さらに牛も自分も空じ去った後の境地である。 水は自ずから茫茫、花は自ずから紅なり。


きんさん すい は、 ぶつどう げん じょうなり
(正法眼蔵「山水経」)

  しかし薔薇の花の「不思議」が見えるには、そ の前に「大死」がある。精神的な死である。絶対的なる自己否定である。 大死一番の後の乾坤新たなリ、絶後の再蘇である。西田幾多郎は晩年の論文 「場所的論理と宗教的世界観」の中で、「相対的なるものが、 絶対的なるものに対するということが死である」といっている。 逆に言えば、精神的な死を経験することによってわたしたちは 「絶対的なるもの」、「永遠」にふれるといってよいだろう。

   自分の生命の赴くまま、天地いっぱいに只管(ただただ)咲いている花々。 誇ることもなく無心に咲いて無心に散っていく五月の花々。 なんとすばらしいことではないか。百花春至為誰開(百花、春至って誰がために開く)。







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