甲州光沢山青松院

 同行二人 

平成17年9月号



  人生は旅、とはよくいわれることである。芭蕉の奥の細道の有名な句を引くまでもなく、これは誰にも一再ならず迫ってくる実感であろう。人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずるものがある。それは何故であろうか。
  何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。
(三木清「人生論ノート」)


  甲州は山の都というのでどんなに涼しいことかと 思われているそうだが、盆地なので存外暑い。熱が満ちた甲子園球場の すり鉢の底にいるようなものである。熱の逃げ場がない。照りつけるような 真夏の間はそうでもなかったが、朝夕ほんのすこし秋の気配が感じられるように なってくると、霊場めぐり、お参りの方がぼちぼちとやって来られる。 県外からもたくさん見えるのでまことに有り難いことである。 巨人ファン、阪神ファンも全国にたくさんいるのだろうが、観音さんの ファンは遥かに多いに違いない。皆さんにこやかで、ふくよかで、なんとも云えぬ 「徳相」をしておられる。霊場めぐりを続けておられるとこのような徳相が 自然に備わってくるのであろうか。団体さん、ご夫婦の方、ひとりで参られる方 などさまざまである。普段着で見える方もおられるし、「同行二人」と書かれた 白装束を身にまとい、杖をつき、本格的な出で立ちで見える方もおられる。 団体さんなどは、本堂に上がるとすぐ懺悔文(さんげもん)を唱和される。

昔所造しゃくしょぞう 諸悪業しょあくごう われ昔より造りし諸々の悪業は
かい 由無始貪瞋痴ゆむしとんじんち 皆、無始の貪瞋痴による。
従身口意之所生じゅうしんくいししょう
身口意よりの生ずるところなり
一切いっさい  こん かい 懺悔ざんげ   それら一切をわれ今懺悔したてまつる。

   同行二人とは観音様が霊場巡りの同伴者であるということである。 わがまま、勝手気まま、無意識にいろんなことをしでかし、まきちらし、 時には人様にもご迷惑をおかけし、人の心も傷つけたりするこの自分。 そしてもう一人は、そういう自分を常に見放さず、いつもどこかで 見ていてくださる方、それが観音様である。そういう自分の中の観音様の 存在に気付くとき、同行二人の旅が始まる。

   がしゃくしょぞうーしょあくごー、かいゆーむしーとんじんちー、 じゅうしんくいーしーしょしょう、いっさいがーこんかいさんげー・・・、 団体さんに混じってこちらも一緒にお唱えしていると、 何か不思議な連帯感が生れる。「罪の連帯意識」とでもいうのだろうか、 一種不思議な気持ちになる。日ごろは忙しさにかまけ、めったに一緒に お唱えすることはないのだが、やはり心中わだかまっているものを 悔いるだけでなく、あのこと、このことを思い返しながら声を出して 仏の前で告白するのがいちばんよい。そのほうが精神衛生上にもいい。

   その昔、原始教団では布薩(フサツ)という儀式があった。 それぞれの犯した罪を仏や長老の前で告白するということが 半月毎に定められていたという。まことに殊勝な行為である。 わたしたちは、他人の罪を暴きたてることにはすぐ飛びつくが、 自分の罪業を人の前でさらけ出すことはなかなか容易でない。 人間は自らの知や善に酔うからである。自分だけは、という 「思い上がり」がどこかにあるからである。唯識でいうところの第七識、 末那識(まなしき、自己保存本能)が根強く巣くっているからである。 江戸時代の川柳に「泣きながらよいほうをとる形見分け」という句がある。 人間というのはどこまでもどこまでも欲ボケである。悲しみの中に あっても欲はある。私たちは皆それぞれ「叩けばほこりの出る身体」で あることは間違いない。時には積もり積もった「ほこり」を叩き出し、 旅の風光に当ててやるのもよい。


重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば
(西国霊場17番六波羅蜜寺ご詠歌)

  観音霊場めぐり発祥の地といわれる西国霊場には 風光明媚なところが多い。先般、世界文化遺産に指定された熊野地方を 後ろににいただく和歌山県那智の青岸渡寺を第一番霊場として、紀三井寺、 粉河寺などの和歌山の霊場。大阪府へ入り施福寺、葛井寺。奈良県へ入り 壺坂寺、岡寺、長谷寺、興福寺・・・順路は、ずーっと北上して京都の 街中へ入っていく。六波羅蜜寺は第十七番霊場である。京の繁華な街中にあり、 山寺とは云いがたい。しかしそれだけに庶民の信仰を集めている。 六波羅蜜とは何か。彼岸(浄土)へと渡る六つの徳目とされている。 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。彼の岸に渡るということで六度ともいう。 (観音)菩薩はこの六波羅蜜を修行するといわれている。

  物でも心でも惜しまず温かい言葉をかけること(布施)、 戒をよく保つこと(持戒)、困難や逆境に負けないこと(忍辱)、 人知れず努力すること(精進)、心の落ち着きを失わないこと(禅定)、 そしてそれらを通して般若の智慧、仏の智慧を磨くこと(智慧)。 これらが基本的な解釈であるが、菩薩の修行はすすむとさらに奥が深くなる。

  道元禅師は「布施というは貪らざるなり」ということばを のこしておられる。純一の禅僧であった澤木興道老師はこれに基づき 次のように述べられる。


  「この頃は、布施といえば坊主の日雇い賃のように思うているが、布施とは欲しがらぬということである。金や物ばかりではない、悟りも欲しがらぬ、極楽も欲しがらぬということである。極楽も欲しがらぬかわりに地獄も嫌がらぬ。こういうのが布施である。」
(澤木興道「証道歌を語る」)


  この人生を彼の岸へ渡る旅ととらえる真の修行者にあっては、 これほどまでにも境涯ができあがってくるのである。







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