甲州光沢山青松院

 体露金風 

平成17年10月号


  秋のお彼岸さんが過ぎると朝夕急に肌寒くなる。 日の落ちるのが驚くほど早くなり、自然の運行は間違いなく「陽」の 気から「陰」の気へと移っていく。敬老会や大運動会も終われば 秋はいよいよ深まりゆき、この頃になると県外から甲州へ観光に こられる方のバスも頻繁に見かけるようになる。遠方から見える方にとっては、 まず富士がきれいに見えるかどうかが問題である。秋晴れでくっきり見えれば それに越したことはないが、おり悪く天気がぐずつく日もある。「晴れてよし 曇りてもよし富士の山、もとの姿はかわらざりけり」の歌を引き合いに出しても 所詮慰めに過ぎない。「富士は日本一の山」と小学校の唱歌に歌われ、地理では 標高の数字まで覚えさせられた。また外国の観光客にもゲイシャとならんで フジヤマと誉れ高いあの富士山である。遠路はるばる着たのに雨雲ですっかり 隠れてしまう姿ほど情けないことはない。そんなとき、甲府市の北部から 車を走らせれば二十分足らずで行ける昇仙峡を訪れることを勧めている。

  秩父多摩甲斐国立公園に属するこの地域は峡谷を 中心とする景勝地である。さまざまな形をした無数の岩石、渓流に切り取られた 花崗岩の岩肌、そして瀑布の清冽な響きが街中の喧騒を忘れさせ、人間存在の 根源へと立ち返らせてくれる。雨に煙った遠景は墨絵の世界さながらであり、 禅家でいう「無情説法の話」の公案を想起させる。山川、草木、瓦礫など識情の 無いものを無情といい、それらの説法を聞いてこいという公案である。 富士もまたいいが、枯淡閑寂とした雨中の「わび」もまた秋の興趣にふさわしい。 鳥啼いて更に幽なり。谿川のせせらぎが逆に底無き静けさを摘出する。 渓声すなわち是広長舌、山色あに清浄身に非ざらんや、と詠ったのは中国宋代の 有名な詩人であり在家の大居士でもあった蘇東坡であった。蘇東坡はまた雲霧に けぶる中国の景勝地を次のように詠んでいる。

盧山烟雨浙江潮   慮山ろざん烟雨えんう  浙江せっこううしお
未到千般恨不消 未だ到らざれば 千般恨み消せず
到得帰来無別事 到り得帰り来って 別事なし
盧山烟雨浙江潮 盧山は烟雨 浙江は潮

   盧山の烟雨、浙江の潮といわれた二大景勝地を一度は訪れてみたいと長いこと憧れていた。 今日ようやく宿願を果たし、見ることができたが、帰ってきて思うに、なに格別のことはない、 いたって平凡尋常なものであった−。これは表面的な意味であり、在家の大居士であった 蘇東坡にとってはいわゆる悟境を詠んだ偈頌となっている。修行に修行を重ね、悟りに悟りを 重ねてきた高い境涯というものは「ただの人」「凡人」に戻ることだとよく言われる。 その立派な「ただの人」立派な「凡人」になるがためにわたしたちはあくせく働き、毎日 やっさもっさしているともいえる。詩は老境に入りつつある「道人」の境涯にも思える。 登り来たりて未だ山麓、という境涯であろうか。

   図と偈頌でしめした「十牛図」といわれる禅のテキストがあることはよく知られている。 見失った牛を探し求めていく尋牛から始まり、見跡、見牛、得牛、牧牛、騎牛帰家、 忘牛存人、人牛倶忘、返本還源、入テン垂手の十枚の絵からなる。やはりこれも 「凡」から「聖」へ、「聖」から「凡」へともどっていく「こころ」のプロセスが おもしろい。

   夏が過ぎ秋が深まると時は急に縮まりゆく。すべてのもが何ものかに向けて 収斂していくような感じになる。落葉樹は紅葉のあと葉を落としていき、 常緑樹は不易の美を際立たせる。雲門という大和尚は「樹しぼみ葉落つる時如何」と 問われたのに対し「体露金風」と詩のような美しい言葉で答えている。 道元禅師は、松も時なり、竹も時なりと見性しておられる。森羅万象それぞれの 「とき」が熟していく。







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