観音信仰と甲斐国三十三観音霊場
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人は常に現在に生きる。あれやこれやと想い、欲し、望みが叶わなければ 叶わないで思いあぐねつつも、周囲にも気配りながらこの現在を絶対現在 として人は生きる。禍福はあざなえる縄の如しと古人は云ったが、誠実に、 真摯に生きれば生きるほど苦もまた生じる。現世利益といえばなにか胡散 臭さを感じる人が居るかも知れぬが、観音信仰があれほど熱狂的に人々の 支持を得たのはやはりこの現世の苦からの脱却であったのではないか。 お釈迦様は生・老・病・死を見つめ、苦からの解放を目ざされた。人は 何ゆえに観音へ詣でるのか。人はあらゆる動機で発心し、発願し、旅に出る・・・。
カンノンという言葉の響きは人を魅了してやまない。観音、観世音という
字義はわれわれ衆生の心の音、声なき声を聞き給うということである。
絶対的なる抜苦、大悲そのものである。サンスクリット原語は
アヴァローキテーシュブァラ、心経では観自在菩薩というが、その慈悲に
満ちた智慧はこの世ならぬはたらきを感じさせる。聖観音、十一面観音、
千手千眼観音等の美しいお姿は、信仰は言わずもがな、美の対象にさえ
成り得る。観音に詣で、諸菩薩を拝観していると思わず忘我の境に入る。
苦からの発心が美の魔境に我を忘れている自分に気づく。美と信仰との
相克である。もう観音が自分を捉えて離さない。観音を求めて行脚している
即今巡礼底のこの己こそが観音に他ならないと気づくのである。苦からの
出立が不断煩悩得涅槃となって帰家穏座するのである。観音は常にわれわれ
衆生凡夫と共に涙を流しまた同時に呵呵と笑う。大乗の代表的な菩薩、
観世音菩薩を訪ねる旅に出よう。西国、秩父、坂東・・・そして甲州にも
霊場は広がっている。光沢山青松院は甲斐国観音霊場第三十三番、結縁札止の
寺である。
甲斐國観音霊場札所案内
関連項目:十一面観音立像(山梨県指定有形文化財)、青松院の歴史【甲斐三十三番観音巡礼結願霊場(1700年代〜1800年代 江戸時代)】 |