青松院の歴史
■甲斐武田氏ゆかりの古刹(1522)
青松院の開基は大永二年(1522)、紀州太守信章(武田伊春:ただはる)公。 開山は大栖元「(たいせいげんちょう)とある『光沢普光記』(下書)によると、 伊春公は、武田信満の六男山宮民部少輔(しょうゆ)信安の五男として生まれ、 二十一歳で迎えた永正十一年(1514)年に紀州太守に任ぜられ名を信章とあらため たと記述されている。
信章公は祖先である山宮信安が館を構えていた地に、時の第十五代甲斐守護職武田信虎の 助力を得て一ヵ寺を建立大栖禅師を開山と迎え、山宮一族の菩提寺とした。これが青松院の はじまりである。 ちなみに『東鑑記』によれば父山宮信安は明応元年(1492)の合戦で命を落とすが、 そのとき信章公は母の胎内にやどっていた遺児であったという。 開山像―大栖元「禅師―
関連項目:開山像 ■貞享四年の青松院絵図(1687)
貞享四年(1687)四月、検地のために作成した古絵図である。
関連項目: ■甲斐三十三番観音巡礼結願霊場(1700年代〜1800年代 江戸時代)
享保九年(1724)八月、甲府城主柳沢吉里が大和郡山城主として 移封されたあと甲府領は幕府直轄となり、幕府の財政的な逼迫 などを理由に新寺建立廃止令や寺院の統廃合が行われた。甲府領の 寺院は各宗派の代表寺院が幕府に代わって管理する制度に改められた。 その中にあって青松院は、竜王慈照寺の末寺筆頭として残された。
文化十一年(1814)に編纂を終えた『甲斐国史』仏寺部・山梨郡北山筋の項には
「光沢山青松院」(山宮村)について次のように記されている。 曹洞宗慈照寺末、御朱印拾四石四斗、寺中千弐百八拾坪、山林四町三拾間、
三町拾間仏殿方五間、本尊十一面観音(弘法大師ノ作)本州巡礼三十三番
結縁札所ナリ。不動、毘沙門、達磨ヲ安ス。古寺観音堂趾ハ片山ノ頂ニ在リ。
当寺ニ遷セル時ヲ知ラス。本堂七間半、拾間、本尊釈迦如来、庫裡、衆寮、
開山堂、大栖元「和尚ノ像アリ。
観音信仰が庶民の間で熱狂的なブームとなった江戸中期以降、青松院は 「甲斐国三十三観音巡礼」の三十三番結願の霊場として隆盛をきわめた。 関連項目:観音信仰と甲斐国三十三観音霊場、十一面観音立像(山梨県指定有形文化財) ■十六羅漢納入の由来(1824)
このほど、大月市賑岡町東光寺古文書のなかに
と表紙に記入した十六羅漢納入の趣旨書が偶然にも発見された。和とじの5ページにわたる 趣旨書は、時の住職・二十二世麒山道鱗(きゆうこうりん:天保八年五月二十六日示寂) が、甲斐三十三観音の結願所として栄えていた当山に十六羅漢像を取り揃えるため檀家 および観音信仰に厚い人たちから浄財を募るために配布したものと思われる。この趣旨書 は、過去帳と共に永久保存されている。
この時、どのくらいの浄財が集まったかは定かでないが、十六羅漢一式を納入したのは
その翌年、つまり文政七年(1824)ごろと推定される。
十六羅漢 関連項目:十六羅漢 ■室町様式の庭園を復元(1963)
かえりみるに、曹洞宗の古刹・青松院は武田歴代の守護を受け、徳川に政治が移っても 幕府の庇護を受けて現代に至った。昭和三十八年に入山した安居老師の発願で太平洋 戦争以降、荒れるにまかせていた寺院の再建が進められ、同時に荒廃していた庭園の 新作庭作業に着手した。 本堂の北側の松嶽庭は、日本庭園研究会の吉河功会長が、青松院創建時の 室町時代様式の曲水式池泉をテーマとして計画にあたった。
足利義晴を迎えるために築庭したと伝えられる室町時代の名園旧秀隣寺庭園(滋賀県)を
さらに豪華にした作庭である。
関連項目:庭園 |
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