【心の杖言葉】 仏道を習うというは 自己を習うなり ― 現成公案 ―
「いい言葉」というのは、心に残り、また汎用がききます。子育てを習うというは自己を習うなり、医療を習うというは自己を習うなり、芸術を習うというは自己を習うなり、武道を習うというは・・・等々。 その昔、中学校の国語の時間に、漢字には象形文字、会意文字、形声文字、転注文字、指示文字、仮借文字があると教わりました。以来、「習」は 「羽」と「白」とが合わさった会意文字であると思ってきました。が、単なる会意文字ではないようです。ある偉い漢学の先生のお話によりますと、習の下の白は元々動作を表す記号で 鳥がバタバタ羽を動かし親鳥になって飛び立とうと練習をしている様子を表しているそうです。見様見真似で一生懸命動いているうちに、やがて時が来て、自分のモノになっていくというのです。仏さんの真似をしていると、本物の仏さんに近づいてくのです。習うとは絶えず新しい発見へと自己が開かれていることです。 明治の宗教哲学者の清沢満之は、自己とは何ぞや、これ人生の根本問題なり、と言っています。 (令和4年5月) |
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